2008年4月23日水曜日

オトギノマキコ インタビュー

オトギノマキコとの出会いは、横浜のあるダンスプログラムでスタッフをしていた時のことである。オーディションで彼女のダンスを見たとき、自分のダンスに近い原理みたいなものを感じた。私は周りの様々な物事に「反応する」要素が強いけれど、彼女はその時イチゴジャムを口の中にほおばって、口の中全体で甘みを感じ、その甘みが体全体を反応させているような印象を受けた。それからもう何年経ったのだろう、彼女にも紆余曲折あり、踊れなかった時期を経て、今回久しぶりに東京でダンス公演を行う。紆余曲折の間には、精神的に追いつめられた経験もあるそうで、その経験からうつ病など様々な病について洞察して気功の勉強もしている。今回の公演は、気功の講座とワークショップも体験できるという贅沢なものだ。気功のワークショップは、様々な人に体験してもらい、それを言葉にしてほしいとのこと。詳細は右の公演情報をご覧ください。彼女のダンスについての話は、「世界をどのように感じるか」というテーマに触れ、私自身の作品作りともリンクする興味深いものとなった。


〈コミュニケーション手段としての表現〉

マキコ 人と対話しているとき、人の話を聞いていても、同時に頭の中で「話す」時に使っている脳も働いているって知ってました?『ミラーニューロン』っていうのがあって、相手のまねをしているみたいな感じで相手の表情や体からも、それを自分の内側でトレースして認識しているようだということが、あるとき発見されたんですって。とても面白いなと思って、手塚さんの作品はそれを意識的にやっているようで面白いです。対象化ということだと思うけれど。そうでなくても家族とかの場合、子どもが親から何を読み取るかという時にすごくそれが現れると思う。

私は、人と話しているときに、内容ではない何か、もう一つ別の次元で、読み取っている感じがあります。場所ということに対しても、その場所の具体的な状況だけじゃなくて、そこには見えない何かがあると感じるんです。人と話す時は、読み取ろうとするということが自分はちょっと過剰だと思う。過剰に読み取ろうとしてしまって、そこに自分の思考パターンが入ってしまうので、何かを思い込んでしまうような時もあるみたい。だから、脳の判断だけに流されないように、妄想に対して気をつけています。

手塚 会話で多くの場合は、その読み取るということで判断しているような気がするよね。

マキコ 実はそうかもしれないね。だから、会って話さないと分からないというか。

手塚 電話とか、違うよね。メールはもっと違うしね。

マキコ でも更に複雑だなーと思うのは、会って普通の回路で話しているときの、その人が表層的に見えている時だけじゃなく、もうひとつ、作品になっている「何か」とかその人が書いたもの、描いた絵とかでもいいのだけれど、もうひとつ自分の中で編集してアウトプットしている何かにも、その人の本質的なものをとても感じるんだよね。だから両方見ないとその人が分からないと思う。どっちかだけでは分からない。だから、その人の言葉でそれを聞きたいということに加えて、何かを文章にしてもらったりして初めて「こういうことだったのか」とか思う。色々な面を見てじゃないと、人の事を誤解してしまうんです。ある面だけを見て「ああ、こうなんだ」と判断するのは危険だな、されるのも嫌だし、だから様々な面を見るひとつとして、表現を見るというのが、コミュニケーションの手段としていいと思う。

〈現実とファンタジー〉

マキコ 文節とかコラージュとか、「ありえない繋ぎ合わせ」みたいなことがすごく好き。そういう世界を作りたいんです。たぶん、「バリ舞踊」を見たときにすごく強く惹き付けられて感じるのは、そういうところです。たまらなく入って行っちゃう。例えばこう、ヒーリングミュージックならヒーリングミュージックでもいいんだけど、それにあわせて一つのトーンだけで踊られているものとか、ムーブメントみたいなものとかには、気持ちよさは感じても何か平面的に感じてしまう。作品の背後にある何か見えない仕掛けというか、何かが何通りにも複雑にくみ合わさっている仕組みみたいなものを感じると、夢中になってしまうんだよね。バリ舞踊のすごい所は、ひとつの踊りなのに、仕組みというか「縦軸、横軸」を感じさせるような何かがあって、それが微妙にずれたり、入ったり、複雑になっていて、物語が交差していてうわーと感じさせるところがあって、強く作品性を感じるんです。一番好きな踊りですね。そこに凄く感じるものがあります。

手塚 私もインドネシアの演劇ワークショップを受講したことがあって、その講師の先生は、インドネシアの古典舞踊を小さい時からやっていた人だったんだけれど、稽古でおもしろかったのは、体をいろいろな部位に分けて、頭だけを、蛇になりきって動かしたり、手だけ、胴体だけ、足だけというように、それぞれある生き物になって、そこだけに主導権を持たせて動かしたり、その後、それぞれの部位が別々にしかし関わって動かすという訓練等をやったんだよね。

マキコ そういう、頭だけが蛇になったり、体をすごく細かく分節して、そこだけ動かすとか、手塚さんの手法だと奥歯の歯茎を意識したら、それが踵と繋がるみたいな、そういうような事に、よりリアリティーを感じるのね。漠然とした流れるムーブメントみたいな、気持ちいい動きみたいなものは、稽古としてはやれても、そのまま作品にするということではないな。

手塚 体の欲求と、作るという欲求がまた別々にあるということ?

マキコ というより、ファンタジーと現実の違いという事に近いかもしれない。私にとって「体の欲求」が叶うというだけのこと、というのはファンタジーと感じます。今現実にある世界を切り取ったものの方を、作品にしようとしています。「自分の体だけが欲していること」と「世界観」とのズレ自体が作品と言ってもいいかも。すごく気持ちいい中で、例えば川のせせらぎで踊るという方が気持ちいいに決まっているというような「動き」があるとしたら、あえて歌謡曲とかノイズみたいなもので、脳と身体を相反させる。本当にやりたいことは別にあるのかもしれないけど。素直に気持ちいいことが人に見せることではない気がしています。それは現実の世界とは違い、ファンタジーだと思っているから。作品とは呼ばないかな。

〈オトギノさんの世界観〉

手塚 「現実の世界を切り取る」という時の世界という言葉と「自分の世界観」という言葉はニュアンスが違うように思うけれど、例えば「オトギノさんの世界観がよく出てるよね、この作品」みたいな言い方の世界観と違うよね。

マキコ 私の世界観というのは、私のフィルターを通して私の目が見ている世界の認識という事ですね。そしてそれが作品になっていく。世界は様々なことが入り組んでいる状態であって、そのように世界を見ていますということだと思います。

手塚 また、それをアウトプットする欲求があるということだよね。

マキコ そうだね、アウトプットする欲求はあるよね。それは、第一に自己治癒だな。まさに、そのことが起こっている自分に「起こっている」ということを知らせる。対象化ということだと思うけれども。それから、自分の体に「こうやりたい」という欲求が入り組んだ状態で在る。ただ気持ちいいだけではなくて、ちょっと嫌な不快感がある状態で、ちょっと気持ちいいという感じ。「ここは気持ちいい」けれど「この辺はすごく、痙攣している」ということがあって、それら全体で気持ちいいんだよね。ここは緊張していてここは緩んでいるとか、緊張と弛緩が繰り返せることが気持ちよくてずっと弛緩している状態だと、それが「気持ちいい」ということが分からなということもあるよね。相対的に体の状態を比べないと、ひとつの状態が認識できないという感じがある。そして、作品としては、コントラストで見せるという事を考えます。例えば、体のズレとかは、ここにまっすぐの線を引く事で、この歪みがさらに際立つように見えるとか、そういう作り方をしています。色彩みたいなものも、対比させて見せる。空間の使い方とかも、ここでこれをやることに意味があるとかそういうことが大事ですね。劇場では何が行われようと、たとえ血を流そうと、演劇の一つのして何でも許されてしまうというところがあって、それってぜんぜん私にとって興奮できないけれど、見ている動きが歪んで行って、入り込んで見てしまうというようなことが起きる時、私が見ている世界観を集約させて感じてもらう事ができる気がする。

〈手塚は動きたくない人、オトギノさんは動きたい人〉

手塚 基本的には、欲求みたいなものが自分を突き上げてどうしてもそれをしちゃう、みたいな物の延長線上に作品とか踊るということがあると思うけれど、そういうところで私は「体が気持ちいい」というようなことは考えた事がなかったんだなと、今の話を聞いて思った。「作ろう」とか「作らなくては」みたいな所からスタートしているから。それは何か自分の場所をどうしても作って行かなくてはいけないというような所から始まったような気がするけれど。だから「作る」というのが自分の前提としてあって、その時に結局は自分の欲求というのが大事なんだなと思うようになって、またもうちょっと自分の欲求を解放していこうというふうになったけれど。そう考えると自分の体はそんなに動かしたくない、移動もしたくないというところから、自分の体の一部に意識を集中するというようなことが出て来たと思う。

マキコ いわゆるダンスする、リズムに乗って動かすという欲求が体の中にあるわけではないということ?

手塚 元々はぜんぜんなかったと思う。元々はって、どこを元とするのかにもよるけれど、たぶん、成人していってそうなったのかもしれない。例えば「クラブ」で踊ろうということになって連れて行ってもらっても、困ってしまって、無理矢理それっぽく動かしてすごい笑われたりして、それでいやになっちゃうみたいな。そういうのはどう?

マキコ 私はたぶん動きたい人なんだと思う。だから、私の中のイメージでは、バレエとかオリンピックの跳躍している人とかを見ている時は、自分の中でトレースしていると思う。その人そのものになって飛んでいる。ネバーエンディングストーリーのファルコンが空を飛んでいるのとか、自分が乗っかってしまって見る。あと、マドンナとかマイケルジャクソンとかを見たときに踊っているんだよね自分で。その動きができないのにかっこいい動きをやっているつもりなんだよね。外側から見たらそれはできてないんだけど、そのズレが、欲求と作品の違いかな。それが出来てしまったら、私の欲求はかなうかもしれないけど、作品ではないんだよね。それができることは私にとって世界じゃないんだよね。

手塚 世界じゃないってどういうこと?何をさして世界?

マキコ 世界という言葉は「現実」というような意味で使っているんだよね。世界地図の世界ではなくて。

〈叶わないものへ向かい続けるベクトル〉

手塚 それがかなうのが世界じゃない、ってどういう意味だろう。もしかなっていたら、それが現実に起きた事ということなので、それが「現実」と言えてしまうよね。

マキコ 私の欲求というのは「絶対にかなわないことを思う」ということから始まっているので。

手塚 かなわないことを思うのが、望んでることっていうこと?

マキコ 体はいつもかなわない望みに向かって走っているというか、そういうふうに飛びたいとかもっと高くというふうに体が夢想しているというのが作品で。もしかなったら、それは違うものになってしまう。

手塚 何と違う?

マキコ 世界としか言いようがないんだよね。

手塚 世界観?オトギノさんの世界観とは違うということ?

マキコ そうだね。私が見える世界のことを言っているんだからそうだね。体がそれに向かって憧れたりとか、例えていうならスプーンを曲げようとしてすっごい必死でこすっているというような、念というのかな、すごい必死でやっている状態。大野一雄さんの「アルヘンチーナ」とかの気持ちが分かるんだよね。私が「松田聖子」を踊るみたいな感じで、彼は「アルヘンチーナ」を踊っている、それになりきりたいという。外側から見るとそれがまったく違って見えるというのが、その遠さが作品になるんだと思って、それを作品と呼ぼうと。それが私の欲求とか、望みとかベクトルというのかな、何かに対してがーっと思う、集中力みたいなものがこういうふうに現れるというのが、作品にすることで俯瞰してみえる。

あと、基本的には何かに集中したいという欲求があるんだよね。欲求の原点はそれかもしれない。しゃべる時も、踊る時も、恋愛でも、その人を分かりたいと思うときに全力で相対したいというような。そういう力の向け方があって、それが踊りでもあって、例えば私自身の漠然とした不安とか、死についてとか、ネガティブな要素に対しても集中してしまうんだよね。それはつらい事なのだけれど。どこかで、その欲求があるんだよね。そこが不思議なところで、体は快の方に向かっているとも言えるけれども、不快を感じる事が快であるという、逆転した感じがあるよね。とにかく不快でも快でも何でもいいから感じたいというか、「ここにある」ということを。だから、リストカットの話とかはまさに本当にそのままそうで、同じなんだと思う。それを感じる事でとにかく「快」に変わる、逆転して「居る」という感じがするというか、そんなような力の向け方だよね、その時の。

手塚 ということは、「実感したい」とも言えるのかな?
マキコ そうたぶん、実感したいって感じかもしれない。
手塚 自分が「居る」ということを実感したいという。
マキコ 私の場合、たぶんその理由になっているのが、「体が自分のものではないような気がする」という、たぶん「気」が足りないということだと思うのだけれど、
手塚 自分の物じゃないという感じがするというのは、嫌な事?それを克服したいというような気持ちがあるから実感したいという方向に行くのかな?
マキコ そうだね。舞台とかでは今ここで私が「密」に居るという感じがあるよね。でもここに何かがあるとかっていうような、実感のしかたではないんだよね。自分の粒が広がったり、自在に動いてる感じで、動きによって、自分が居るということが分かる。「丹田」というものの感じ方にしても、ここに熱いものがあるという感じ方じゃなくて、たくさんの矢印がここに向かって走っているぞ、という、その矢印の向かってくる動きの方を感じるんだよね。だから、存在するというようなことも、「存在しようとして」と感じているのではなくて、過程みたいなもので感じている。

手塚 何か相対的な相手を見つけるということ?
マキコ そう、そうだね、だからコントラストってことだと思うんだけれども。ココでこれをするから感じるというようなことで、漠然とした場所でそれをやっても、あまり対比になるものがなければ感じる事ができないのだと思う。

手塚 鋳型として、自分の存在を感じさせてくれるような対象を、自分を相対化してくれる対象を求めるということかな?

マキコ そうそう、だからたぶん、オーディエンスがいるんだと思う。自分だけでは絶対分からないんだよね。うん。

手塚 面白い話が聞けてよかった。ありがとう。

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