2007年3月24日土曜日

山賀ざくろ インタビュー

ある冬の終わりに、東京でとあるダンス公演を観に行った。子どもがいるので久々の劇場である。そこで、前橋からはるばる見に来ていた山賀ざくろに出会った。「よー、劇場でよく会うねー」という感じで、帰りに軽く対談しました。対談するのは面接画法で2度目。かなり、軽く雑談してるけれど、結局ダンスについて、アーティストについて深く考えることになった。
3月に二人とも本番を控えている。作品を創る前にいつも色々な事について改めて考えさせられるけれど、この会話もそういったキッカケの1つになったかもしれない。

〈お互いの作品づくり〉

山賀 そう言えば、どうやって作品創ってるか、手塚にちゃんと聞いたことなかったなー。去年BankARTでやったのと今回のは違うやりかたなの?
手塚 同じ手法だよ。同じなんだけど。変わってるよね。もうダンスなのか?っていうギリギリの所かな。
山賀 俺のは「ダンスだよね」ていう感じだからね。

〈「ダンス」とは?〉

手塚 えー、観た感じ「ダンスだよね」っていうほどハッキリしてないと思うけど…。それ、自分の中ではダンスだよねってことだよね。
山賀 ま、俺としては「いいダンスですね」って言われるのがうれしいけどね。
手塚 でも逆にハッキリ「ダンス」に見えるだけなのは、本当に切実さからは遠く見えるんじゃないかな。それが、本人にとっての切実さに繋がっていると、「あ、山賀ざくろの切実さが見えた」てことになるのであって、なるほどこういう「ダンス」ですか、みたいに、「ダンス」という言葉が浮いては見えない。
山賀 目指すのは、そうだよね。そう言う意味ではいくら上手くても駄目なんだよね。「うまいね」で終わっちゃうんだよね。「じゃあ、あなたはどういう人なの」ていうそれがね、見えないことには、それは一番見えるようにしたいんだけど。それでも「いいダンスですね」って言われたいっていうのはあるな。

〈歌舞伎の中に見たダンス〉

山賀 こないだ、浅草に歌舞伎を観に行ってさ、新春浅草歌舞伎を。これは若手がやってるんですよ、20代くらいの人達がね、主役をやるようなね。「身替座禅」という演目をやった中村勘太郎がすごくよくてね。台詞ももちろんあるけれど、舞踊的で体の動きで見せる作品だったんだけどね、細かい所作や間の取り方とか、お囃子にどんぴしゃでシンクロしている体の動きから溢れ出る心の動きがダイレクトに体感できて、観ていてついつい自分の心も体も踊らされてしまうような。人の見ていてそういう瞬間があるのがいちばん心地いいわけで。
手塚 ダンスでそう言うのは無いんですか?最近
山賀 コンテンポラリーダンスだとそう言うのがあんまりないんだよね。手塚の去年のBankARTのも、観ていてほとんど心が踊るなんて瞬間はなかった(笑)。でも、つまらなかったのかというと、そうではなくて、川の流れや雲の動きをぼーっとずーっと永遠にながめているような気分にさせられたわけだから、やっぱりすごい作品だったよ(笑)。心が踊ってしまうような快感はないにしても、あの時間はなんだったんだろう?という、後々に何か引っかかるものが残るダンス作品はもちろんある。おもしろい人、変な人はいっぱいいるもん。ただ自分の求めるダンスと違うっていうのはあるかな。
手塚 具体的に今はどういうダンスを求めているわけ?
山賀 ダンス始めたのはね、バレエダンサーがピルエットくるくる廻るのとか、劇団四季の人とか足を真上まで上げて踊るのをテレビで観て、うわーすげー!俺もこういう風になりたい!って思ったのがきっかけなんだけど。それなりに長いことダンスやってきて、自分の好きな動きというか、やりたいことがハッキリしてきたと思うんだよね。ダンス始めたころはどんなダンス観てもほとんど全部感動してた(笑)。今はね人の作品観てても、自分だったらどうするだろうとか、どこか冷めた目でダンサーの動きを追っていることがよくあって、そういうのがあるから、色々コンテンポラリー観ても、純粋に楽しめるってことがあんまりないし、残念だな。だから「歌舞伎を観る」とかそういう事の方がいいんですよね。
手塚 じゃ、歌舞伎の何が山賀っちの心を動かす要因になるのかな?芸の確かさってこと?
山賀 うまいというだけじゃない何かもあると思う。「その人」が見えるという感じはあるな。それと「そのキャラクター」が良く見えているとか。
手塚 でも、芝居でそのキャラクターがよく見えるというのとは違うんでしょ?
山賀 でもそれも少し共通したモノがあるかな。それも体の中に反映させているというか。歌舞伎は鳴り物があって、「ドンドコドンドコ」と鳴っている中で、体の動きを当てはめていくわけでしょ。そういう意味でも好きなんだけど。あ、そう、日本ぽいモノが好きなのかもしれない。
手塚 へー。
山賀 日本舞踊でも京舞なんかのあのゆっくりとしたのより、わりとアップテンポのが好きだなっていうのが前からあってさ。体が反応する。
手塚 どういうところが好きなの?あるいはどういう要素が好きなの?
山賀 テンポとか、メロディーラインとか、お囃子とか。
手塚 なんで、他のダンスのリズムと違ってそういう日本ものの、要素が好きなの?
山賀 たまたま…
手塚 えー…考えてみてよー。

〈歌舞伎のリズムと山賀のリズム〉

山賀 そういうビートだけじゃなくて、お囃子に「よっ!」とか「はっ!」とか入るじゃない。弾きながらさ。ダンスだと裏打ち、ん・ちゃ・ん・ちゃ、みたいなさ。それとはまた違うんだけれどもさ。そういうノリが自分に合ってるのかもしれない。かけ声であるとかね。
手塚 へー。山賀っちの体のリズムに合った何か、反応させる何かがあるのかな。山賀っちの作品にはそれに近いことってあるの?
山賀 俺の作品では歌モノの曲を使うことが多いんだけど、踊ってて2コーラスくらいまではいいんだけど、3コーラスくらいからは曲に飽きちゃうことがよくある。
手塚 (笑)それ今の話と関係あるの?
山賀 それは、飽きるのは、ビートがずっと同じだからなんだよね多分。
手塚 和風の方は違うの?
山賀 そう、ずっとおなじじゃなくて、ちょっとまったりしたり、急に早くなったり、またどっしりと重くゆっくりになったりと、変化に富んでるんだよね。間とか休符のとりかたもかな。
手塚 あー、なるほど。生き物みたいにリズムそのものがいろいろ変化していくような感じなのかな?確かにそれは山賀っちのダンスに通じるところがあるね。
西洋のダンスでそういうリズムのものってないの?じゃあ、もしかしたらアジアの他の国では、音楽とか西洋のリズムと違うモノがあるかもしれないよね。

〈音にインスパイアーされる?〉

山賀 作品を創るというよりも、1時間なら1時間、音楽かけっぱなしで、飽きずに面白がって踊ってる所を見せていられたらいいなー。
手塚 前にハワイアンかけながらずっと踊ってるの観たけれど、あれはあれで面白かったね。普段、いろいろな曲を使うじゃないですか?どうやって選んでるんですか?作品に手をつける前に、この曲使いたいとか思うんですか?
山賀 同時進行だったりすることが多いんですけどね。
手塚 『ヘルタースケルター』とかは?その曲を聴いてやりたいと思ったんじゃないの?
山賀 ああ、あれはそうだよね。岡崎京子のコミックマンガの方が先かな…。マンガの名前が「ヘルタースケルター」なんだよね。
手塚 ああ、そうなんだ。
山賀 最後のシーンでビートルズのヘルタースケルターの曲がかかると主人公の女の子が出てくるというシーンがあって。それが衝撃的なんだよね。その作品に刺激をうけたんだけどね。「変身」という要素が大きい作品だと感じて、だからあの俺のやった「ヘルタースケルター」では女の子に変身するとどうなるか?っていうことをやってみた。そこに繋がるわけですよ。
手塚 なーるほーど。深いねー。でもぜんぜん気づかなかった。
山賀 まあ、それを見せるのが目的ではないからね。インスパイアされるだけど、それでいいんだよね。

〈山賀の新作は果たして?〉

手塚 新しい作品はどうなの?今創っている?
山賀 うん、さっき言った作品で初めて、女装して踊ったという事があったので、もう一回やろうかどうかというのが悩みどころなんだよね。
手塚 悩みどころなんだ?まだ決めてないんだ?
山賀 ん、まーねー。
手塚 「卒業」っていうのは何なの?
山賀 うん、だから女装して踊るのはこれが最後にしようかなーって思って。
手塚 (笑)
山賀 そういう線もあるし、何か俺中途半端で。キリをつけたいっていうのもあるんだよね。
手塚 えー?これでダンスやめるとか?
山賀 いや、やめないけどね。なんか区切りをねー、人生の中で、イマイチつけてないような感じがあって。
手塚 決めなくちゃならないんじゃないの?何に決別するかを。
山賀 うん、そうだねー。そのへんは曖昧なんだよね。
手塚 (爆笑)意味無いジャンよおー。
山賀 うん卒業するつもりだったけど、やっぱり留年しようかなーとか。卒業?するの?しないの?どっちにするの?みたいなさ。( )がつくようなさ。
手塚 なるほどねー。
山賀 それ、決められないのはいつもの通りだけどさ。
手塚 じゃ、いつもの通りなんだ。
山賀 そう、そうなんだけどねー。舞台に立ったときに、どっちなのか?卒業するのかな?っていう。で、3月は卒業シーズンだしね。

〈手塚は「道場破り」企画というのを始めた〉

手塚 最近「道場破り」というのを始めたのね。自分が好きだったり尊敬していたりするアーティストの方法論にとても興味があって、もっと深く知りたいというのが一番の理由かな。それとアーティストってみんな孤独に作業していて、自分を確認しきれなくなったり、不安になったり自信を見失ってしまう危険がいつもあるから、共感できる関係を紡ぎたかったっていうのもあるかな。やって良かったのは、自分の中で「これしか答えがない」と思ってしまうところがあって、自分の中で何が正しいかという答えが限定されて、狭くなってしまう。こういうことは駄目、あれも駄目、これしか正解じゃないというふうに。でも他の人のものを、無理やりにでもやってみると、自分の中でぜんぜん使っていなかった心と体が出てきて、ラジオのチャンネルに例えると、ああ自分は1つのチャンネルしか聞いてなかったんだな。よくよく探してみると他にもいっぱいチャンネルがあったんだ。自分の中にもね。そういう拡がりみたいなものは持てた気がする。
山賀 なるほどね。それで今度、俺のダンスにも手塚が取り組むことになったわけだけど、どうなっていくのか楽しみだね。
手塚 うん。そのうちに「道場破り合い」というのをやりたいと思っていて、今は「手塚が道場を破る」ってことでよくて、その後お互いに興味がある相手に対して、お互いの「道場破り合い大会」をやりたい。誰が誰を破りたいか、お互い好きに選択してやるようなイベントにしてもいいし。いろいろな可能性があるのではないかなと思って。また、そのうち地方に行くような道場破りもやりたいな。
山賀っちは今、もう今東京と一緒になってしまってるけど、例えば、前橋に行ってみんなで山賀っちの道場破りに行くぜとか、松山のヤミーダンスの所に行くとか、まあ、そうなればある程度助成金とか必要になると思うけど。

〈アーティストの関わり合いについて〉

手塚 アーティストに助成金を取って企画をたてるくらいの気持ちがないとなと思う。アーティストが協力し合って助成金を取ったり場所を確保したり、そういう体力があったらいいなと思う。今は、それなりにダンスが流行ってるからいいけど、やれる場がいつまであるかなんて何の保証もないし。
山賀 まあ、ダンサーはそれぞれ好みも違うし、人と一緒に何かをっていうのは難しい面もあると思うけどね。人と出来ないからソロでやってる人も結構いるだろうし。
手塚 それはそうなんだけどね、まずは、自分の領域っていうか、自分自身が良く分からないっていうような切迫した思いがあって、自分自身を見つめないと、出発できないということはある。だからソロを徹底的にやるというのはいいことだとは思う。でも、関係することで引き出し会える力とか、関係することで何か新しい事ができるっていうことを私は結構信じているんだよね。それは普通の人同士でも本当は難しいことだけどね。国と国の関係でもその延長線上の難しさなんだと思う。価値観の違いや利害関係によるトラブルっていつも起きる。でも、だからといって「関係」を持つことを諦めていたら、それはアーティストとしての役割を放棄してしまうことになるんじゃないかなって。アーティストには関わることで創造的な物事をつくり出す力があって、それを実現することで「関わり」の可能性を示していくことができる。世界に対して。このままだと「ダンス」あるいは「芸術」が人に対して世界に対して、役割のあるものにはなっていかないんじゃないかな。本人にとってやることが必要であっても、そのままだと…
山賀 人に見せなくてもいいものになりかねないよね。人に見せるということ自体、「関わり」というかコミュニケーションをする行為なわけだしね。
手塚 そこに役割を見いだせないとアーティストは仕事を続けられないよね。逆に、人にとって、アーティストの仕事が役割を持つようになれば、それは必ず続ける場を与えられるし、お金さえ巡ってくる可能性が出てくる。今は、残念ながらそう受け取っていない人が殆どなのかもしれない。娯楽は必要だけど、アート作品が切実に必要だという人は少ないと思う。だからお金も廻って来ない。でも、人はこれから大変な時期を迎えるでしょ?学校も、その制度も、戦争も、環境問題も、何もかも大変な状況になっていくから、その中で「“関わり”ということは人はもう駄目だね、人はもう利害関係でしか関われないんで、戦争も避けられないし、犯罪も避けられないね」みたいなそういう方に突っ走ってしまう可能性は高いと思う。だから、それに対してアーティストの果たさなければならない役割はある。それは政治的に発言していくとかいうことではなくて、自分というサイズで、「自分というたくさん壁を持った人間が、そういった人同士でも、関わることで力を引き出し会える」ということを、見出していけて始めて、役割を持つことが出来ると思う。牽制し合うとか否定しあうとか「自分の方が」という気持ちにアーティストはなりがちだけれども、それだと、本当に摩擦が起きている国と国の関係と変わらないし、それだけでは現代のアーティストとしては、「コンテンポラリー」のシーンとしては絶対駄目だと思う。だから関わりの可能性みたいなものをどうやったらお互い引き出す気になれるのかな、というのが今の私の思いで、「道場破り」はそのキッカケになったらいいなと思ってる。

〈お互いの作品づくり〉

山賀 手塚はどういうところに興味があって作品づくりしているのかな?
手塚 今までは、体の一部分に意識を集中したりすると、体が勝手に動いてしまったりとか。
山賀 それも良く、体が勝手に動くよなって思うよね。
手塚 余りにも一部分だけに意識を集中したらね、他の自分ていう感覚が薄くなってしまうのね。物質的なモノのほうが、体の一部、っていうその部分の方がクローズアップされすぎてしまい、自分の一部というよりはそこが勝手に生きているみたいな感じになって、そうなると体が勝手に動き出すんだよね。
山賀 どこか体の一部分を意識するとかさ、ずっと止まってますとかさ、そういうのは出来ないタイプなんだよねー、俺。
手塚 ああー…。
山賀 だから手塚的手法がまず出来ない。集中しよう、集中しようと思うことが、もう駄目。15秒くらいで駄目っていうかね。子どもみたいにワーって動いてるときに何か面白いものが生まれてくるから、集中できないよね。
手塚 でも、『えんがちょ』の最初のところはさ。
山賀 あー、あれは辛くってねー。
手塚 (笑)あーもしかしたらあれ、山賀っちが辛いから面白いんだね。もう立ってるだけで、すっごくおかしくなっちゃうんだよね。立ってる姿が…。何か耐えてるっていう感じなのかね。
山賀 決まり事をもうやりたくないなーというのは、あるんだよね。それなんで、即興的にばーっと1時間なら1時間踊れちゃえばいいなーというのがあるんだけど。でも、実は負荷を与えられた方がいいんかな?本当は…。
手塚 うん、だからちょうどその間くらいがいいよね
山賀 うんその両方というかね。
手塚 そういう意味で私はディープラッツで見た『愛の嵐』が良くて。あれはほぼ即興に見える状態に持って来れたように思う。
山賀 頭っから即興だったもんね。
手塚 でも段取りはきまってるでしょ?
山賀 それはね。
手塚 段取りがはっきりあることと、その中で自由であるということが、ちょうどいいバランスのラインを出せたと思う。そのラインがでたらそれが成功だと思う。それがどうしても細かい所まで創り込まないと不安になったり、あるいはそれがすっかりいやになって、全部即興になってしまったり、そのちょうどいいラインを見つけだせないとどっちかに振り切ってしまうのではないかな。それはもったいないよね。
山賀 うん、そうだねー。
手塚 次回作は、きっとそれが絶妙のラインに…
山賀 分かんないけどねー。
手塚 て言っておいたほうがいいかなと思って。
山賀 かな。

山賀 二人の方法論はぜんぜん違うし、それを見てほしいよね。
手塚 そうだね、両方見て欲しいよね。
山賀 上演する日も一週間の違いだし。
手塚 どのようにぜんぜん違うのか見て欲しいですね。
山賀 話は合うけど、やってることは違うもんね。
手塚 それから、「道場破り企画」で山賀っちを破りに行くしねー。そちらもいつになるかはまだ未定だけど、是非乞うご期待!というところですねー。

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